出来たと思う途端の落とし穴
当然のことだが、初めは何もない。
漠としたなかで、一人の人物が思い浮かぶ。
ふと閃く場合もあろうし、熟慮のあげくやっと捉えることもある。
次に、その人物がどういうことにぶつかって、どう動き出すか、心情を中心に辿ってゆく。
当然、相手役が必要となる。
親友だったり、姉妹だったり、恋人だったりするわけだが、
主人公のキャラ、ストーリー展開を振り返ってみて、
ユニークな作品になり得ると判断出来た場合、
「さァ、これでいい。あとは科白を書くだけだ」
となる。
これが早い!
特に、せっかちな人や自己愛の強い人に多く見られる傾向なのだが、
書き出す前の必要な準備が忘れられている。
何本書いても、そのことに気付かない。
「毎年方々のコンクールに応募しているが、一度も一次を通ったことがない」
こう嘆いている人が大勢いるようだが、これは少しおかしい。
書き方をおぼえたばかりの初心者で、三、四本までの作品なら、それも云えるだろう。
形にこだわるだけのお話であって、ドラマと呼ぶには程遠いものなのだから。
私も曾て何度か審査員に加わったことがあるが、一次審査ではそうしたお話が圧倒的に多い。
仮りに応募作品が二千本あるとすれば、半分は形に捉われていて人間を描くことを忘れている。
従って、ある程度の期間シナリオと向き合ってきた人が底辺から抜け出せないとすれば、
前述したように、準備不足以外のなにものでもないと思う。
そこに、作劇に対する基本的な考え違いがある。
一応の筋立てがあり、人物同士の感情の葛藤も盛りこまれている……
それを、作者が上から眺めていてはいけないのだ。
上目線で見ている限り、作者好みで人物を動かすことになる。
主人公を可愛がるあまり共感を求める描き方になったり、作者都合で筋を運んだりするわけだ。
読者は実に敏感で、そうした作為をことごとく読み取ってしまう。
そして、手前勝手だなという白けが残る。
皆さんもそうだと思う。
映画やテレビドラマを観て批評を求められたとすれば、的確な意見を述べる筈だ。
塾でも、通信生に対しても、このところ徹底的に
「書き出す前になすべきこと」を強調している。
新しく参加した二、三人の人たちには難しすぎることかもしれないが、
私は斟酌しない。
一番大事なことなのだから。
曾つては私もそうだった。
どう描けば人の心を打つドラマになるのかが分らずに、五年ほど無駄にした。
具象をもう一度抽象へ戻す……形の中を探って心を引き出す……
と云えば、極めて難しいことのように感ずるだろうが、
つまり、出揃った駒を全部棚に上げて、人物を一人ずつ下ろしてくる。
横との繋がりを忘れてその人物と対話する、云い分に耳を貸す、ということなのだ。
そうすると、作者都合で見落としていた彼等の本音が聞こえてくる。
『本当はそれほど好きじゃないのかも。失恋した反動なのかも』
『そう勝手に親友だなんて決めつけないで欲しいな』
『ただ十年間一緒に暮らしただけのことを大げさに云わないで』
等々。
そうした本音を聞くと、
『出来た』と思えていた部分が実に勝手な運びでしかなかったことに気付くわけだ。
云わば、典型的な水平思考だろう。
それを心がけた時、始めてお話がドラマに変ってゆく。
この【上達講座】では、その一点を徹底的に追いかけてみたいと思う。
どうすれば、描こうとする人物たちに『心』が入るか、
ドラマと呼べる『厚み』が生じるか……。
塾でも通信生相手でも、時間をかけて訥々と説いているその辺りのコツを、
果たして画面上の僅かなスペースでどれだけ伝えられるか、
正直云って自信はない。
振り返ってみて【ネット授業】や【作劇法】を中止した理由も、
その辺にあったような気がする。
つまり、文字では分って貰えないという虚しさが残ったのだ。
だが、決めた以上は再度試みてみる。
最後になんの脈絡も説明もなしに、歌詞の一節を。
昭和50年代に「魅せられて」という歌がヒットした。
中に、
『好きな男の腕の中でも違う男の夢を見る』
とある。
女を描く時の心得ではないだろうか。
0コメント