科白の吟味塾生・通信生には共通した欠点がある。科白の吟味が少なすぎるという事がその筆頭だ。通信生の作品を例に取ろう。簡単に云うと、主人公AにBという親友がいる。ごく最近AにC子という恋人が出来て、夢中になっている。だが、C子には忌まわしい過去があって、ふとした事からBがそれを知ってしまう。Aに報せるべきかどうか悩んだ末にBは話す決心をする……というくだりがある。動作やト書きでは確かに迷ったり悩んだりしているのだが、結果口にする科白がこれだ。「俺だって、親友のお前にこういう話をするのはつらい。だけど、お前も知っておいた方がいいと思うんだ」そのまま抜き出してみたが、なにか身も蓋もない感じを私は受けた。こういう場合、確かにズバッと要点を切り出す方が友情を滲み出せるかもしれないが、だとすれば、前後の動きが違う。どう見ても短絡に書いてしまったとしか思えない。どうしてそう焦って先を急ぐのか。もしかしたら、書き出したら一気呵成にと、間違った教えをどこかで身につけたのかもしれない。シナリオは勢いが大事だということは、プロのレベルになってから云って欲しい。その人物間の親密度によっては、核心に触れず遠まわしに暗示する方法もあるだろうし、逆に、科白を起こさずに伝える間接話法もあるだろう。要は、Aにハッと悟らせればいいわけだから。そうすれば、次のシーンがまた変ってくる。再度この作品に戻るが、次のシーン、AはカッとなってC子を咎めに行く、となっているが、分りすぎて面白くもなんともない。疑心暗鬼というか、もっと複雑な感情をあぶり出すべきだ。となると、BがAに告げるシーンは無い方がいい、と云える。私は電話で懇々と話したが、分って貰えたとは思えない。あれこれ考えた末の選択なら、たとえ拙なくても仕方がない。人それぞれに、現在のレベルというものがあるのだから。しかし、試行錯誤だけは充分に繰り返して欲しい。シーンの並べ方にしても科白づかいにしても、そこでなされた工夫は必ず読み手に伝わる。狙った感情はにじみ出る中年以上なら大抵の人は、推敲(すいこう)の故事を知っている。唐の詩人賈島(かとう)が、自分の作詩の中の「僧は推す(おす)月下の門」という件りを、「僧は敲く(たたく)月下の門」とどちらが表現として適切か、ロバの上で思案に暮れているうちに殿様の行列に突っこんでしまい、あわや無礼討ちされそうになったことから出来た言葉で、何度も練り直す意味で今日まで使われている。作劇を志す者なら、尊敬する人物の一人にこの賈島を加えておいて欲しい。長年にわたって何度も繰り返してきた事だが、誰もが感動するような「いい話」など、どこにもないのだ 。コンクールで間違いなく最終審査に残る「心うつ話」など、絶対にない。要は、ストーリーの内容や組み立て方ではなく、登場する主人公たちの歪んだとも云える心情をどうえぐり出すか、あぶり出すかにかかっている。それ次第で、一つのネタは100点にも0点にもなる。2017.01.11 18:54
ト書きの功罪40年以上にわたった講師生活の中で、私は數えきれないほど同じ質問を受けた。「ト書きにもやはり約束事があって、それを覚えなきゃいけないんでしょうか」「こんな勝手気侭なト書きはあるかって怒られたんですけど」「フォーマットがあるんなら教えて下さい」などなど。結論を先に云おう。ト書きの書き方は自由だ。見本なんかない。制約もなければタブーもない、好きなように書いていい。しかし、これには条件がつく。シナリオというものをある程度わかった上での「自由」だ。どうしてそんなことまで書くのか、と云いたくなるようなものは困る。一番損するのは作者自身。読み手が白けたり、ムカついたりするわけだから。例えば、ファーストシーンで主人公の女性が歩いてくるとする。それに対して、服装や髪型、アクセサリーまで指定する人がいる。赤い服がよく似合うとか、胸元にしゃれたペンダントが揺れているとか。その「赤」が、その「ペンダント」が、後に重要なモチーフになってくるのなら別だけど、ただ、作者が脳裏に描いている女性像を押しつけてるだけ。ひどいホンになると、目許がどうの鼻筋がどうのと……ホンとは呼べないね、そんなのは(笑)「歩いている内藤智子(26)」これでいい。その時の心理状態を伝えておく必要があれば、「どこか足取りが重い」とか、「思いつめた顔をしている」とか、そこまででしょう。ついでに、ラストシーンにも触れてみる。余韻を伝えたい気持は分るけど、蛇足は必要ない。「ふと空を見上げる智子。今はもう、ふっきれた表情をしている」それでいいのに、西陽がどうの、鳥が群れをなして飛んでいるがどうの、木立ちが風にどうの、一杯書いてある。情景でさえそれだから、人物描写はもっとひどい。片手で肩を押さえたとか、大きく伸びをした時に長い髪が顔にかかったとか。いや、ほんと(笑)読者がうざがるだけじゃなく、業界の関係者が読んだら、本気で怒るよ、「金作って、一人で勝手に撮れ」って。余計なことを指定するから、読み手のイメージは逆にどんどんしぼんでいく。こういう人のホンは、一事が万事この調子。肝心の芝居そっちのけで、ト書きばかりやたらに書きこむ、それで心情まで伝えた気になっている。必要なことかどうかの判断には、充分神経を払ってほしい。もう一つ、例を挙げよう。ワンショットワンシーンみたいな、インサートカットが入るとする。シークエンスの変り目などに、「林立するビルの向うに朝陽が上る」これは、前のシーン(前夜であっても、數日経過していても)における主人公の感情が反映しているはず。いっぱく置くことによって、読者、観客に「あぁ、とうとうその日が来たんだな」とか、「一晩泣き明かしたんだろうな」とか思わせる為の効果を狙ってるわけで、前のシーンに重い芝居もなにもないのに、日替わりを告げるだけでシーンを立てるなんて大きな間違い。困ったことに、一方で、「絵に出来ないト書きは書くな」「どうやって演出しろというんだ」「ト書きは、人物の動きだけを補足すればいいんだ」などど、目くじらを立てる講師がいる。多分、前述したような自意識過剰なホンに対する牽制球だと思うけど、云ってることは間違い。シナリオと演出台本は別。もう一度云う。心情にからんだト書き、大いに結構。早い話が、人間は本音を喋るとは限らない。いや、むしろ、その時の感情とうらはらなことを口にする場合が多い。まして、シナリオでは、人物同士のぎくしゃくした感情を取り上げるわけだから、心と真逆な言葉が出てきたりする。そうでないと面白くないし、際立ってもこない。だから、読む人に(演出家を含めて)真意を伝えるためにト書きを駆使するのだ。現に私は、こんなト書きを書き続けて来た。「昂奮のあまり、智子は、自分でも何を喋っているのか分らなくなってきている」「説得している筈なのに、内心では寒々している」「いつキレるか、智子は今の自分がすごく心配だ」「云いきったものの、後々の不安が胸をかすめている」ついでに、私の親友が書いた映画のシナリオからも一本。主人公の女が喚きちらすシーンの最後にポンとト書き。「もしかしたら生理が近いのかもしれない」全篇読まなきゃ分らないだろうけど、この一本に女のキャラが実にうまく象徴されている。ビジュアルになれば、演出次第で、或いは役者の表情などで、充分観客に伝わる。しかしホンの上では、人物達の真意や心情が伝わりにくいことが多い。だから、ト書きで橋渡しをしなければならない。堂々と書かなければならない。ただし……芝居をしっかり書きこんだ上でのこと。云い換えれば、芝居を逃げてト書きに頼るようでは困る。ト書きにも、科白づかいと同様、上手い下手がある。一人よがりな余計なものを省いて、「簡潔に」書くべきだ。2017.01.11 14:08
時間をかけて練り直そうどうしてもプロになりたい、この道を一生続けてゆきたいという人が何人もいて、こちらも中途半端ではない指導を迫られているが、今日は彼等に共通した欠点を挙げてみようと思う。科白の吟味が少なすぎるという事がその筆頭だ。つい先日送られて来た通信生の作品を例に取ろう。簡単に云うと、主人公AにBという親友がいる。ごく最近AにC子という恋人が出来て、夢中になっている。だが、C子には忌まわしい過去があって、ふとした事からBがそれを知ってしまう。Aに報せるべきかどうか悩んだ末にBは話す決心をする……というくだりがある。動作やト書きでは確かに迷ったり悩んだりしているのだが、結果口にする科白があまりにナマすぎる。どう見ても、ダイレクトにストンと伝えている。「俺だって、親友のお前にこういう話をするのはつらい。だけど、お前も知っておいた方がいいと思うんだ」そのまま抜き出してみたが、なにか身も蓋もない感じを私は受けた。こういう場合、確かにズバッと要点を切り出す方が友情を滲み出せるかもしれないが、だとすれば、前後の動きが違う。どう見ても短絡に書いてしまったとしか思えない。どうしてそう焦って先を急ぐのか。もしかしたら、書き出したら一気呵成にと、間違った教えをどこかで身につけたのかもしれない。シナリオは勢いが大事だということは、プロのレベルになってから云って欲しい。その人物間の親密度によっては、核心に触れず遠まわしに暗示する方法もあるだろうし、逆に、科白を起こさずに伝える間接話法もあるだろう。要は、Aにハッと悟らせればいいわけだから。そうすれば、次のシーンがまた変ってくる。再度この作品に戻るが、次のシーン、AはカッとなってC子を咎めに行く、となっているが、分りすぎて面白くもなんともない。疑心暗鬼というか、もっと複雑な感情をあぶり出すべきだ。となると、BがAに告げるシーンは無い方がいい、と云える。私は電話で懇々と話したが、分って貰えたとは思えない。あれこれ考えた末の選択なら、たとえ拙なくても仕方がない。人それぞれに、現在のレベルというものがあるのだから。しかし、試行錯誤だけは充分に繰り返して欲しい。シーンの並べ方にしても科白づかいにしても、そこでなされた工夫は必ず読み手に伝わる。狙った感情はにじみ出る。先月また1人、通信生が参加した。40代半ばの男性で、遅蒔きながらプロを目指したいと云う。単なる意気ごみだけではなさそうなので引き受けたが、案に相違して技術面は低そうだ。だが、一年なら一年、やってみて燃え尽きたとしても、それはそれで充足感が残るだろうし、現在、親身になって指導している。それにしても、野に遺賢なし、とはよく云ったものだ。少しはこちらが楽しめるような骨っぽい通信生が現れないものかと、ないものねだりしている私なのだ。中年以上なら大抵の人は、推敲(すいこう)の故事を知っている。唐の詩人賈島(かとう)が、自分の作詩の中の「僧は推す(おす)月下の門」という件りを、「僧は敲く(たたく)月下の門」とどちらが表現として適切か、ロバの上で思案に暮れているうちに殿様の行列に突っこんでしまい、あわや無礼討ちされそうになったことから出来た言葉で、何度も練り直す意味で今日まで使われている。作劇を志す者なら、尊敬する人物の一人にこの賈島を加えておいて欲しい。長年にわたって何度も繰り返してきた事だが、誰もが感動するような「いい話」など、どこにもないのだ 。コンクールで間違いなく最終審査に残る「心うつ話」など、絶対にない。要は、ストーリーの内容や組み立て方ではなく、登場する主人公たちの歪んだとも云える心情をどうえぐり出すか、あぶり出すかにかかっている。それ次第で、一つのネタは100点にも0点にもなる。2017.01.10 10:56
勘違いは後々まで祟る ① なぜ、そう誰も彼もが流暢に喋りまくるのか。 ② なぜ、相手と交代交代に口を開くのだろうか。 ③ なぜ、いつも本音を語って聞かせるのか。 ④ なぜ、主語や述語を入れた文章のような言葉を発するのか。 ⑤ なぜ、社会常識をベースに喋るのか。思いつくままに並べてみたが、キザな言い方をさせて貰えば、「私が感じた五つのWHY」と言えよう。作家生活は十数年前に引退宣言したわけだが、途中から併行した指導者生活はいまだに続いていて、なんと30年を越えた。その間、数え切れない程の生徒たちの作品を読んだし、コンクールの審査員としても見知らぬ人の多くのシナリオに触れた。結論を先に云おう。とにかく科白がいけない。恰好の素材を掴んでいながら、科白というものに対する認識が根本から違っている為に闇に葬られてしまう。そうした作品に触れた時、一人一人を呼んで話して聞かせたい衝動を覚えたものだ。前述の五ヶ条を見て、自分は違う、それ程愚かな捉え方はしていないと思う人が多い筈だが、果たしてどれだけ科白というものを理解しているか、把握しているか、大いに疑問が残る。私の経験から見て、初心者は100%、シナリオ歴3年ぐらいで作品も何作か仕立てた中堅層でも50~70%、もう少しでプロの仲間入りが出来るという予備軍でも30~50%、誤った認識に捉われている。考えようによっては、恐ろしい事ではなかろうか。塾でも勉強会でも、このところ科白に対する指摘や考察が多い。それで、この上達講座を読んでくれる人たちにも僅かながら再現しているわけだが、明確には伝わらなくても警鐘ぐらいにはなってくれるのではないかと思う。もう一度、なぞってみよう。①で云えば、あまりにも人物たちが喋るので、初めは煩わしさに顔をゆがめる程度だったのが、ペラ20枚~30枚と読み進むにつれてその傾向に拍車がかかり、読んでいる方は段々気分が悪くなってくる。「少しは黙っててくれないか!」と喚きたくなるものもある。「云わせなきゃ分らないでしょう」と、生徒たちから何十回何百回も云われた。私の応答は常に一つ。「云わずに分らせるからいいんじゃないか」言葉で分らせるのは誰だって出来る。「云っちゃお終いなのだ」現在、某コンクールの三次審査に残っている通信生Aさんの場合など、第一稿から提出した第四稿までに、科白だけ見ても100本以上カットされた。電話やFAXでその都度指示したのだが、ペラ1枚に無駄な科白が2本あるとして単純計算でもペラ120枚で200本以上、決してオーバーに云っているのではない。とにかく喋る。話を進行させる為に喋り続ける。一体どこの国の人たちか疑わしくなる。「科白は必要最小限にとどめる」その鉄則をどうしてすぐに忘れてしまうのか。②に移ってみよう。今、私の目の前に通信生の作品があって、先程読み終えたばかりなのだが、主要人物たち3人が話し合うシーンが何ヶ所かある。科白がベターッと並んでいるだけでも煩わしいのに、A・B・C、時にA・C・B、更にB・A・Cと判で押したように交代に喋らせている。しかも、かなり激した内容のやりとりなのに、くいもせず、かみもせず、一人が喋り終えて「はい、どうぞ」とバトンを渡している。渡される方は「じゃ、云わせて貰うが……」となる。感情がヒートアップしているとはとても思えない。「なんと折り目正しい人たちなんだろうか」と、私は呆れ果てた。この人の悪い癖を短時日でどう矯正するか、既に私の斗いは始まっている。③は尚更いけない。私の知る限り、人は中々正直に気持を相手に伝えたりしないものだ。照れもあるだろうし、相手の気持をおもんばかる場合もある。そうした時、言葉では逆の云い方をすることの方が多いのではないか、特に、愛し合っている者同士とか、親友だったりする場合。正直者の国なのかと、ここでも私は首をかしげる。尚云えば、正直の上にバカがつく。④はつまり、生きた言葉になってない、ということだ。「私、あなたの今の言葉に嘘が感じられてならないんです」とあったが、どうして「うっそー!」ではいけないのか。私に云わせれば、それすら不要だ。チラッと相手を見る目に疑いの色が濃い、とでもト書きで書けば済むシーンなのだ。⑤と④と連動している。言葉にすればする程、科白に起こせば起こす程、嘘くさくなることは日常誰でも経験している筈なのに、作品の上ではどうして無視するのか、全く呆れ果てる。私が長年私淑してきた新藤兼人さんの作品に『裸の島』がある。実験的に作られた映画だが、科白は一本もない。言葉がないからこそ、主人公夫婦のその時々の感情が手に取るように分る。掲示板で『靴をなくした天使』を取り上げた人がいたが、私などが解説するより、シーン毎に自分だったらここはどう書くか、じっくり比べてみれば科白に対する思い違いに気付く筈だ。見て「あー、面白かった」では、一般の映画ファンと同じだ。作る側の人間になろうとするなら、他人と違った方法がある筈だ。シナリオは、読みものではない。「活字を使った絵」なのだ。そこが本質的に小説とは異なる。映像化の為の設計図であってお話ではない……そこがしっかり飲みこめていれば、科白の持つ意味合いも理解出来る筈だ。「努力は必ず報いられる」……というのは、嘘だ。それは、報いられた人間の甘美な追憶と誇らしげな述懐にすぎない。「一将功成って万骨枯る」……これは適切な表現だ。しかし、万骨の方に入りたくなければ、それなりの方法はある。まさぐって周りの者と違う取組み方を編み出すべきだろう。2017.01.10 10:55
たら、れば、こそ最強の武器私の指導生活もそろそろ終りに近づいているが、振り返ってみると、個人的に付き合った人だけでも50人は軽く越える。1人ずつが持つ悪い癖が短時日で矯正出来た人もいるし、最後まで手古ずった頑固な持病もあった。だから、いつも云っているように、身近に格上の先輩を探し出して、自分の欠点を指摘して貰う、徹底的に直してゆく、ことが必要だ。同レベルの友達では、傷の舐め合いになる恐れがある。病気を抱えたまま歩き回ると、かえって患部は悪化する。だが、上達する一番の条件は、やはり熱意だ。暖簾分けした十数人の人達は等しく熱心だった。話を作ること、書くことが苦にならないどころか、本当に好きだった。だからこそ、あっという間に本家を追い越して、美味しく香ばしい煎餅を売り出すようになったのだろう。塾生にも通信生にも、私は口を酸っぱくして云っていることがある。ここでも何度か取り上げたと思うが、どうしてすぐに「出来た」と結論づけるのだろうか。主人公以下3、4人の主要人物が用意され、あらましの筋立ても出来た、謳いたいテーマも放りこんだ……さァ、これから辛気くさい煮つめの作業に入る、暫くそれを繰り返す、のだと改めて腰を据えるべきなのに、なんともう書き出す。唖然とせざるを得ない。天才なら別だが、少くとも私は観たことがない。古い表現を借りれば「野に遺賢なし」だ。何をするのか……。人物たちとの対話だ。プロなら誰でも、そこに時間をかける。主人公さん、いらっしゃい。そう、あなたでしたね。ご自分をどう思いますか?勿論何も云う筈ない。喋ったらお化けだ。つまり、これから先は一人二役、執拗に自問自答を繰り返すのだ。あなたはもしかして、自分を非常に類型的なキャラだと思っていませんか?作った私を内心怨んでるんでしょう。そう云われると、どこがチャーミングなのか分らない気がするな。はっきり云ってください、行動がパターンなのでしょうか?そう、読む人の想像通りだからね。次いで副主人公。主役はこう云ってますけど、あなたもやりにくいですか?なんだか納まり形でやり甲斐がないわ。もっと泣いたり喚いたりしたいのよ、私は。問題解決についてはどう思います?安易すぎるわね、アッと驚く形にしてくれなきゃ。こういったことを、来る日も来る日も、何時間も何十時間もかけて繰り返すのだ。醗酵期間というのはそういう作業であって、外からぼんやり眺めるのではなく、作品の中に身を投じてひっかき回すことが必要なのだ。すると、出来上りかけていたと思えたものが無惨に毀れてしまう。また傷口を修正する。こんな風にしたらどうなるだろう。こうすればいいのかも。たら、れば、の繰り返しだ。無難な事件にぶつかった時、刑事はしばしば発生現場へ戻る。振り出し点に戻って別な角度から事件を見直すと、気付かなかった違う風景が見えてくる。その方角へまた歩き出す。いわゆる「現場百遍」だ。私はひそかに嘆いている。たら、れば、が少なすぎると。プロになるんだと息巻いている人に限ってそうした短絡さが見られるのはどうしたことなのだろう。あせる気持ちも分らないではないが、じっくり腰を据えて一本一本の作品に向って欲しい。「往くに径によらず」……そこに活路がある。2017.01.10 10:53
「迷いの森」出口発見競争アマチュアのプロットは、一目瞭然欠陥が見える。作者の盲点を指摘できる。このまま書き進んだらどういう作品になるか、事前に云い当てることが出来る。断っておくが、これは自慢ではない。プロとして何年も何十年もやって来た者なら、誰もが身にしみている若き日の過ちなのだ。表題に取り上げた私の造語に置きかえれば、みんな、迷いの森の中でどれ程うろついていたか、あせりまくっていたか、抜け出そうとあがいていたか、忘れられない記憶があるからだ。従って、私の場合も、プロットを一読しただけで、その作者の頭の中の構造が見える。現在の思考回路が云い当てられるわけだ。それに加えて、30年近い指導者としてのキャリアがあるわけだから、そうそう間違ったこと、とんちんかんなことは云ってない筈だ。時に黒板を使って「私だったらこの素材はこんな風に料理してみたい」と、レシピ風のものを見せたりもしているが、それが結構有効打になっているようだ。人物配置、キャラの設定、ストーリーの流れ……自分ではこれでいいと思う。面白い作品になりそうな予感がある。さァ、書こうと思う。その時点で多くのアマチュアは、気付かずにかなりの減点を背負っているのだ。同じことを毎回のように繰り返すわけだが、作者と素材の癒着を本当に切り離しているかどうか、一人よがりではないか、冷たく見つめているかどうか、その吟味にかける時間が少なすぎるように思えてならない。最近扱ったコンストのファーストシークエンスを取り上げてみよう。駅前広場で、一人の若い女が弾き語りでロックを歌っている。寒い季節で道行く人はみな、コートの襟を立てて素通りしてゆく。そこへ通りかかったバイト帰りの青年が、ふとバイクを止め、じっと歌声に耳を傾けた。その視線に気付かずに、彼女はかじかんだ指に息を吹きかけた。次のシーンは、日替わりの公園、初めてのデートでお互いの将来の夢を語り合う。更に、安アパートで同棲しているシーンが続き、貧乏にめげずに愛を育ててゆくプロセスへ移ってゆく。このペラ15枚に読み手はどう反応するか……。作者の思惑とは裏腹に、白けた気分にならないとは限らない。なんでそんなきまりきった導入部から入るのだ、韓流ドラマのパクリじゃあるまいし。公園のベンチに距離を置いて坐ったり、手に罐コーヒーだったり、空には飛行機雲……もう止めてくれと喚かれる恐れがある。つまり、作者が二人の運命的な出会いを美しく描こうとしたにも拘わらず、読者にはなんの関心も起きない、不用だと一蹴される。こうしたことは、明らかに作者に非がある。斗う前から負けていることになる。初めてシナリオを書こうとする人のために、あえて解説しておこう。前述したような段取りは一切不要、そんなことに思い入れてはいけないのだ。若い二人が一緒に暮らしている絵の中に、本編のテーマに繋がる事件的なものが提起される……そのあとドラマの進行の中で、この二人が同棲なのか結婚しているのか、どういう出会いで知り合ったのか、必要に応じて自然に分らせてゆけばいいのだ。「幸せな状態にドラマはない」モーパッサンの至言を改めて噛みしめて欲しい。塾の授業は月に2回だが、それ以外にも毎月2、3度私の家で勉強会なるものが開かれている。先日、一人の塾生がこう云っていた。「云われることがやっと分りかけてきたけど、とてもまだ書けそうに思えない」と。それでいいのだ。分りかけるまでに人によっては十年近くかかったりするわけで、分りかけた所からは早い。つまり、森の出口の灯りが見えたらしめたもので、あとはせっせと歩き続ければ視界は開ける。2017.01.10 10:52
三位一体でコンクール突破素材(テーマ)。シナリオというものが、読者(ひいては観客)に対する挑戦状である以上、その勝負は勝たなければならない。勝つ方法はある。敵は一人一人、趣味嗜好から大きく人生観に至るまで、千差万別のように見える。だが、一点共通しているのは、社会通念という枠の中で生活していることだ。そこに盲点がある。彼等は、常識からはみ出た考え方、生き方をしたことがない。必要ないのだ。そんなものを取り入れたら、いたずらに混乱する。社会生活の歯車が狂う。しかし、何度も話してきたように、「負の世界」に多かれ少なかれ興味を持っていること確かなのだ。変な人間というと、語弊がある。やはり、妖しい情念としか云いようがない。そうした人間を描いて負の論点から堂々と挑めば、孫子の云う「百戦危うからず」になる。ここで一つ、冷静に考えてみて欲しい。お話は誰にでも作れる。街ゆく人々を一ヶ所に監禁して、面白い話を作った人から解散すると云えば、みんな我がちに発表するに違いない。私は40年程前、姪に頼まれて女子校の文芸部を訪れたことがある。その時に渡されたペラ20枚程の作品10本あまり、それぞれ若い感覚が漲っていて、幾つかとても面白い着想と出合った。でも、工夫したのはすべてシチュエーションであって、その設定の上で人物同士ぶつけているだけであって、ドラマとはとても呼べないコントであった。彼女たちはそれでいい。別に、プロになってそれで生活しようとは思ってないのだから。私はしばしば、ペラ20枚のシナリオ、30枚のシナリオという言葉を耳にして、戸惑うことがある。その昔私たちは、作品というものは最低ペラ120枚のものを指すのだと教えられた。(テレビの帯ドラ、連ドラは別だ)つまり、芝居所が7、8ヶ所あるとして、一つに10枚近く要するとすれば、単純計算で7、80枚になってしまうわけだ。それを、すべて20枚の中に押しこんで起承転結をつけるとなると、どうしたって『お話』の域を出なくなるのではないか。ちょっとしたストーリーでいいのだし、確かに書きやすいだろう。筆ならしにはなるかもしれない。だが、そうしたものもシナリオだと錯覚したら、ひどいことになる。20枚のものを仮りに50本書いてプロに近づけるのだとすれば、誰だってプロになれる。日本中シナリオライターであふれてしまう。次いで、構成(コンストラクション)。アマチュアの作品は、総じて運びがダラーッと流れる。歯切れが悪い。これは、各シーンを繋げようとする通弊があるからだ。つまり、分らせようという配慮が働く。分って貰おう、面白く読んで貰おうと思うあまり、無意味な筋立てをしたり、状況を説明したりするのだ。なくて充分、ない方がいいのに……という個所に、無駄なシーンや不必要なやり取りが多く入っている。曾つて塾生の作品にこういうのがあった。自己愛の強い女が主人公だったが、それを売りこみたい為に、至る所で自分を押し出す小芝居を繰り返す。読んでいて、もういい、お前はそういう女なんだ、よく分ったからもう止めろよ、と云いたくなる。普段の描き方を逆にしてみたらどうだ、と私は云った覚えがある。つまり、普段はもの静かで協調性に富んでいる女が、ここという所へ来て絶対に譲らなくなる、自己愛を主張する……ガラッとイメージが変り、そういう女だったのかという驚きが新鮮になる、インパクトが強くなるのではないか、と。構成の要点を一口に云えば、シークエンスとシークエンス(時にはシーンとシーンも)をいかに繋がらないように工夫するか、が鍵になるのだと思う。常識的に考えたって、分る筈だ。読んでいて『おやッ、なにするんだ、こいつは』と、その都度、新たな興味を持たせるから先を読んで貰えるわけだろう。先の予告をされたり、見え見えの方向に運ばれたりしたら、投げ出したくなるに決まっている。ホンには躍動感がなければならない。そして、科白。初心者の作品の中で一番目立つ疵は、ここかもしれない。多分それは、根本的な認識の誤りから来ている。映像化された時、作品からそのまま残るのが科白だという過剰評価がさせるのだと思うが、科白でストーリーを運ぼう、ドラマを支えようとする潜在意識が大きな誤りになっている。シナリオというものは、文字で描かれた絵なのだ。動く絵画なのだ。従って、科白は無くてもいい。これは科白を軽視しているわけではなく、70点の絵を90点、100点近くまで引き上げるのも科白だし、逆に、40点、30点に落としてしまうのも科白……いつも云っているように、生かすも殺すも出来る諸刃の剣なのだ。教室では幾つも例を挙げて話したのだが、ここでは割愛させて貰う。表題では三位一体としゃれてみたが、この3つを改めて三方から見つめ直して欲しい。仮りに、あるコンクールで2500本の応募があったとしても、そのうち2000本はお話なのだから、ドラマの在り方さえ会得してかかれば敵の数など恐れるに足らない。作劇は、理系の学問と違って積み重ねが利かない。その代り、一足飛びの進歩が望める。極める迄にかりに300段あるとすれば、見えたと思った瞬間その人は20段30段駆け上ったことになる。当人にその意識はないとしても、こちらから見れば歴然とその飛躍が見える。2017.01.10 10:52
月並みな褒め言葉は、赤信号書き上げた作品を身近な人に読んで貰う、とする。多分、その場合の相手は、作劇に感心を持つ友達だったりするのだろう。意見を聞かせて貰う時、「すらっと読めた。しっかり書けてると思うな」「起承転結がきちっと出来ていて、どこと云って破綻はない」こんな風に、最後まで抽象的なほめ言葉で終わる場合がある、いや、多い。こういう読後感が返って来た時は、極めて危険なのだ。間違っても喜んではならない。別に彼等は、作者である君に遠慮して言葉を飾っているわけではない。酷評してお互いの関係にひびが入るのを恐れているのでもない。そうとしか云いようがないのだ。実際に、無駄を省いてソツなく書けているのだろう。だが、筋立ては理解できた、作者が云いたいことも伝わってきた、のに、読者である自分の感情には、波立つどころか、なんの反応も起きなかった。とすれば、そういう褒め言葉で逃げるしかないだろう。何故訴えてくるものがないのか、それは彼等には判らないのだから。たとえ言葉は知らなくても、本当にその作品からある種の感銘を受けたとすれば、その内容に即した彼等なりの褒め言葉が返ってくる筈ではないか。そうした読後感が返って来た時、初めてある水準に達した作品が出来たのだなと自認してもいい。そうでない限り、やはりその作品は良く出来た物語であって、ドラマと呼ぶには程遠いものなのではなかろうか。突然、横道に逸れる。シナリオの学校も出た、数年間書き続けた、周りからの評価が得られる、なのに、コンクールでは常に一次審査で落とされる、どういう基準でそうなるのか疑わしくなってくる……曾つて、そういう人達に何人も出合ったが、読んでみると一目瞭然、作品が物語の域を出ていないことが判った。物語とドラマとは全く違うものだという認識が、彼等には出来ていなかったに過ぎない。この講座を読んでくれる人の中には初心者が結構多いのだろうと思うので、ここでもう一度、おさらいをしておこう。この世の中のことはすべて「正」と「負」(ふ)に分けて捉えることが出来る。「実」と「虚」に置き換えてもいいが、少しニュアンスが違う気がする。ドラマでは、主人公の心情、及びそれに伴う行動が「負」のエリアに向かってなければならない。念を押すようだが、その「負」は、勝ち負けの負けとはまるで違う性質のものだ。「正」の領域にも、変なことをする変な人間はいる。これとは全く違うのに、初心者はそれで主人公の資格が出来たと勝手解釈してしまう。例えば、あまりにも理不尽な課長がいて、思わず殴りつけて辞表を叩きつけた主人公がいる、とする。彼には妻子がいて、退職したことを隠してハローワークへ通い、つらい力仕事に従事していた。が、ある日、労働先で問題の課長に出会った。聞けば、彼も、理不尽を押しつけていた部長を殴って会社を飛び出したのだという。怨みが一転して意気投合に変り、二人で何か新しいことにトライしようという盟約が成り立った……。わざとひどい例を取ったのだが、このようなストーリー展開の中にはドラマはない。一般社会に見られるごく健康な感情から生まれる喜怒哀楽に過ぎず、そこには「妖しさ」のひとかけらもない。「負」の世界に去来する妖しい情念など、一般の人達には無縁なのだ。知る必要もない。知ったところでなんの役にも立たない。それだけに、「負」で悩み、「負」の領域で必死に生きようとする人間の心情と行動を見せられた時、人々の中に好奇心が生じる。分らない世界に興味が湧く。そして、次第にその人物を応援したくなり、挙句には喝采を送ったりする。毎度同じことを云うようだが、世の中は99.99%の見る人と、0.01%の作る人に分けられる。両者は思考回路が真逆なのだ。作る側の人間が、真逆の論点から堂々と主張してくるから、見る側の人たちは面白がってくれるわけだ。もしも君が今、作る側の人になろうとしているなら、荒療治をしてでも思考回路を変える必要があろう。狂気とは何か、なぜいけないとされるのか、そこから考え直してみることだろう。2017.01.10 10:50
出来たと思う途端の落とし穴当然のことだが、初めは何もない。漠としたなかで、一人の人物が思い浮かぶ。ふと閃く場合もあろうし、熟慮のあげくやっと捉えることもある。次に、その人物がどういうことにぶつかって、どう動き出すか、心情を中心に辿ってゆく。当然、相手役が必要となる。親友だったり、姉妹だったり、恋人だったりするわけだが、主人公のキャラ、ストーリー展開を振り返ってみて、ユニークな作品になり得ると判断出来た場合、「さァ、これでいい。あとは科白を書くだけだ」となる。これが早い!特に、せっかちな人や自己愛の強い人に多く見られる傾向なのだが、書き出す前の必要な準備が忘れられている。何本書いても、そのことに気付かない。「毎年方々のコンクールに応募しているが、一度も一次を通ったことがない」こう嘆いている人が大勢いるようだが、これは少しおかしい。書き方をおぼえたばかりの初心者で、三、四本までの作品なら、それも云えるだろう。形にこだわるだけのお話であって、ドラマと呼ぶには程遠いものなのだから。私も曾て何度か審査員に加わったことがあるが、一次審査ではそうしたお話が圧倒的に多い。仮りに応募作品が二千本あるとすれば、半分は形に捉われていて人間を描くことを忘れている。従って、ある程度の期間シナリオと向き合ってきた人が底辺から抜け出せないとすれば、前述したように、準備不足以外のなにものでもないと思う。そこに、作劇に対する基本的な考え違いがある。一応の筋立てがあり、人物同士の感情の葛藤も盛りこまれている……それを、作者が上から眺めていてはいけないのだ。上目線で見ている限り、作者好みで人物を動かすことになる。主人公を可愛がるあまり共感を求める描き方になったり、作者都合で筋を運んだりするわけだ。読者は実に敏感で、そうした作為をことごとく読み取ってしまう。そして、手前勝手だなという白けが残る。皆さんもそうだと思う。映画やテレビドラマを観て批評を求められたとすれば、的確な意見を述べる筈だ。塾でも、通信生に対しても、このところ徹底的に「書き出す前になすべきこと」を強調している。新しく参加した二、三人の人たちには難しすぎることかもしれないが、私は斟酌しない。一番大事なことなのだから。曾つては私もそうだった。どう描けば人の心を打つドラマになるのかが分らずに、五年ほど無駄にした。具象をもう一度抽象へ戻す……形の中を探って心を引き出す……と云えば、極めて難しいことのように感ずるだろうが、つまり、出揃った駒を全部棚に上げて、人物を一人ずつ下ろしてくる。横との繋がりを忘れてその人物と対話する、云い分に耳を貸す、ということなのだ。そうすると、作者都合で見落としていた彼等の本音が聞こえてくる。『本当はそれほど好きじゃないのかも。失恋した反動なのかも』『そう勝手に親友だなんて決めつけないで欲しいな』『ただ十年間一緒に暮らしただけのことを大げさに云わないで』等々。そうした本音を聞くと、『出来た』と思えていた部分が実に勝手な運びでしかなかったことに気付くわけだ。云わば、典型的な水平思考だろう。それを心がけた時、始めてお話がドラマに変ってゆく。この【上達講座】では、その一点を徹底的に追いかけてみたいと思う。どうすれば、描こうとする人物たちに『心』が入るか、ドラマと呼べる『厚み』が生じるか……。塾でも通信生相手でも、時間をかけて訥々と説いているその辺りのコツを、果たして画面上の僅かなスペースでどれだけ伝えられるか、正直云って自信はない。振り返ってみて【ネット授業】や【作劇法】を中止した理由も、その辺にあったような気がする。つまり、文字では分って貰えないという虚しさが残ったのだ。だが、決めた以上は再度試みてみる。最後になんの脈絡も説明もなしに、歌詞の一節を。昭和50年代に「魅せられて」という歌がヒットした。中に、『好きな男の腕の中でも違う男の夢を見る』とある。女を描く時の心得ではないだろうか。2017.01.10 10:48