月並みな褒め言葉は、赤信号

書き上げた作品を身近な人に読んで貰う、とする。

多分、その場合の相手は、作劇に感心を持つ友達だったりするのだろう。

意見を聞かせて貰う時、

「すらっと読めた。しっかり書けてると思うな」

「起承転結がきちっと出来ていて、どこと云って破綻はない」

こんな風に、最後まで抽象的なほめ言葉で終わる場合がある、いや、多い。

こういう読後感が返って来た時は、極めて危険なのだ。

間違っても喜んではならない。

別に彼等は、作者である君に遠慮して言葉を飾っているわけではない。

酷評してお互いの関係にひびが入るのを恐れているのでもない。

そうとしか云いようがないのだ。

実際に、無駄を省いてソツなく書けているのだろう。

だが、筋立ては理解できた、作者が云いたいことも伝わってきた、のに、

読者である自分の感情には、波立つどころか、なんの反応も起きなかった。

とすれば、そういう褒め言葉で逃げるしかないだろう。

何故訴えてくるものがないのか、それは彼等には判らないのだから。

たとえ言葉は知らなくても、本当にその作品からある種の感銘を受けたとすれば、

その内容に即した彼等なりの褒め言葉が返ってくる筈ではないか。

そうした読後感が返って来た時、初めてある水準に達した作品が出来たのだなと自認してもいい。

そうでない限り、やはりその作品は良く出来た物語であって、

ドラマと呼ぶには程遠いものなのではなかろうか。

突然、横道に逸れる。

シナリオの学校も出た、数年間書き続けた、周りからの評価が得られる、

なのに、コンクールでは常に一次審査で落とされる、

どういう基準でそうなるのか疑わしくなってくる……曾つて、そういう人達に何人も出合ったが、

読んでみると一目瞭然、作品が物語の域を出ていないことが判った。

物語とドラマとは全く違うものだという認識が、彼等には出来ていなかったに過ぎない。

この講座を読んでくれる人の中には初心者が結構多いのだろうと思うので、

ここでもう一度、おさらいをしておこう。

この世の中のことはすべて「正」と「負」(ふ)に分けて捉えることが出来る。

「実」と「虚」に置き換えてもいいが、少しニュアンスが違う気がする。

ドラマでは、主人公の心情、及びそれに伴う行動が「負」のエリアに向かってなければならない。

念を押すようだが、その「負」は、勝ち負けの負けとはまるで違う性質のものだ。

「正」の領域にも、変なことをする変な人間はいる。

これとは全く違うのに、初心者はそれで主人公の資格が出来たと勝手解釈してしまう。

例えば、あまりにも理不尽な課長がいて、思わず殴りつけて辞表を叩きつけた主人公がいる、とする。

彼には妻子がいて、退職したことを隠してハローワークへ通い、つらい力仕事に従事していた。

が、ある日、労働先で問題の課長に出会った。

聞けば、彼も、理不尽を押しつけていた部長を殴って会社を飛び出したのだという。

怨みが一転して意気投合に変り、二人で何か新しいことにトライしようという盟約が成り立った……。

わざとひどい例を取ったのだが、このようなストーリー展開の中にはドラマはない。

一般社会に見られるごく健康な感情から生まれる喜怒哀楽に過ぎず、

そこには「妖しさ」のひとかけらもない。

「負」の世界に去来する妖しい情念など、一般の人達には無縁なのだ。

知る必要もない。

知ったところでなんの役にも立たない。

それだけに、「負」で悩み、「負」の領域で必死に生きようとする人間の心情と行動を見せられた時、

人々の中に好奇心が生じる。

分らない世界に興味が湧く。

そして、次第にその人物を応援したくなり、挙句には喝采を送ったりする。

毎度同じことを云うようだが、世の中は99.99%の見る人と、0.01%の作る人に分けられる。

両者は思考回路が真逆なのだ。

作る側の人間が、真逆の論点から堂々と主張してくるから、

見る側の人たちは面白がってくれるわけだ。

もしも君が今、作る側の人になろうとしているなら、

荒療治をしてでも思考回路を変える必要があろう。

狂気とは何か、なぜいけないとされるのか、そこから考え直してみることだろう。

芦沢俊郎のシナリオ塾

テレビ・映画の脚本家として活躍し、松竹シナリオ研究所の主任講師を20年以上務めた芦沢俊郎によるシナリオ作法を紹介します