勘違いは後々まで祟る


  ① なぜ、そう誰も彼もが流暢に喋りまくるのか。

  ② なぜ、相手と交代交代に口を開くのだろうか。

  ③ なぜ、いつも本音を語って聞かせるのか。

  ④ なぜ、主語や述語を入れた文章のような言葉を発するのか。

  ⑤ なぜ、社会常識をベースに喋るのか。

思いつくままに並べてみたが、キザな言い方をさせて貰えば、

「私が感じた五つのWHY」と言えよう。

作家生活は十数年前に引退宣言したわけだが、

途中から併行した指導者生活はいまだに続いていて、なんと30年を越えた。

その間、数え切れない程の生徒たちの作品を読んだし、

コンクールの審査員としても見知らぬ人の多くのシナリオに触れた。

結論を先に云おう。

とにかく科白がいけない。

恰好の素材を掴んでいながら、科白というものに対する認識が根本から違っている為に闇に葬られてしまう。

そうした作品に触れた時、一人一人を呼んで話して聞かせたい衝動を覚えたものだ。

前述の五ヶ条を見て、自分は違う、それ程愚かな捉え方はしていないと思う人が多い筈だが、

果たしてどれだけ科白というものを理解しているか、把握しているか、大いに疑問が残る。

私の経験から見て、初心者は100%、

シナリオ歴3年ぐらいで作品も何作か仕立てた中堅層でも50~70%、

もう少しでプロの仲間入りが出来るという予備軍でも30~50%、

誤った認識に捉われている。

考えようによっては、恐ろしい事ではなかろうか。

塾でも勉強会でも、このところ科白に対する指摘や考察が多い。

それで、この上達講座を読んでくれる人たちにも僅かながら再現しているわけだが、

明確には伝わらなくても警鐘ぐらいにはなってくれるのではないかと思う。

もう一度、なぞってみよう。

①で云えば、あまりにも人物たちが喋るので、初めは煩わしさに顔をゆがめる程度だったのが、

ペラ20枚~30枚と読み進むにつれてその傾向に拍車がかかり、

読んでいる方は段々気分が悪くなってくる。

「少しは黙っててくれないか!」と喚きたくなるものもある。

「云わせなきゃ分らないでしょう」と、生徒たちから何十回何百回も云われた。

私の応答は常に一つ。

「云わずに分らせるからいいんじゃないか」

言葉で分らせるのは誰だって出来る。

「云っちゃお終いなのだ」

現在、某コンクールの三次審査に残っている通信生Aさんの場合など、

第一稿から提出した第四稿までに、科白だけ見ても100本以上カットされた。

電話やFAXでその都度指示したのだが、ペラ1枚に無駄な科白が2本あるとして

単純計算でもペラ120枚で200本以上、決してオーバーに云っているのではない。

とにかく喋る。話を進行させる為に喋り続ける。

一体どこの国の人たちか疑わしくなる。

「科白は必要最小限にとどめる」その鉄則をどうしてすぐに忘れてしまうのか。

②に移ってみよう。

今、私の目の前に通信生の作品があって、先程読み終えたばかりなのだが、

主要人物たち3人が話し合うシーンが何ヶ所かある。

科白がベターッと並んでいるだけでも煩わしいのに、

A・B・C、時にA・C・B、更にB・A・Cと判で押したように交代に喋らせている。

しかも、かなり激した内容のやりとりなのに、くいもせず、かみもせず、

一人が喋り終えて「はい、どうぞ」とバトンを渡している。

渡される方は「じゃ、云わせて貰うが……」となる。

感情がヒートアップしているとはとても思えない。

「なんと折り目正しい人たちなんだろうか」と、私は呆れ果てた。

この人の悪い癖を短時日でどう矯正するか、既に私の斗いは始まっている。

③は尚更いけない。

私の知る限り、人は中々正直に気持を相手に伝えたりしないものだ。

照れもあるだろうし、相手の気持をおもんばかる場合もある。

そうした時、言葉では逆の云い方をすることの方が多いのではないか、

特に、愛し合っている者同士とか、親友だったりする場合。

正直者の国なのかと、ここでも私は首をかしげる。

尚云えば、正直の上にバカがつく。

④はつまり、生きた言葉になってない、ということだ。

「私、あなたの今の言葉に嘘が感じられてならないんです」とあったが、

どうして「うっそー!」ではいけないのか。

私に云わせれば、それすら不要だ。

チラッと相手を見る目に疑いの色が濃い、とでもト書きで書けば済むシーンなのだ。

⑤と④と連動している。

言葉にすればする程、科白に起こせば起こす程、嘘くさくなることは日常誰でも経験している筈なのに、

作品の上ではどうして無視するのか、全く呆れ果てる。

私が長年私淑してきた新藤兼人さんの作品に『裸の島』がある。

実験的に作られた映画だが、科白は一本もない。

言葉がないからこそ、主人公夫婦のその時々の感情が手に取るように分る。

掲示板で『靴をなくした天使』を取り上げた人がいたが、

私などが解説するより、シーン毎に自分だったらここはどう書くか、

じっくり比べてみれば科白に対する思い違いに気付く筈だ。

見て「あー、面白かった」では、一般の映画ファンと同じだ。

作る側の人間になろうとするなら、他人と違った方法がある筈だ。

シナリオは、読みものではない。「活字を使った絵」なのだ。

そこが本質的に小説とは異なる。

映像化の為の設計図であってお話ではない……そこがしっかり飲みこめていれば、

科白の持つ意味合いも理解出来る筈だ。

「努力は必ず報いられる」……というのは、嘘だ。

それは、報いられた人間の甘美な追憶と誇らしげな述懐にすぎない。

「一将功成って万骨枯る」……これは適切な表現だ。

しかし、万骨の方に入りたくなければ、それなりの方法はある。

まさぐって周りの者と違う取組み方を編み出すべきだろう。

芦沢俊郎のシナリオ塾

テレビ・映画の脚本家として活躍し、松竹シナリオ研究所の主任講師を20年以上務めた芦沢俊郎によるシナリオ作法を紹介します