ト書きの功罪
40年以上にわたった講師生活の中で、私は數えきれないほど同じ質問を受けた。
「ト書きにもやはり約束事があって、それを覚えなきゃいけないんでしょうか」
「こんな勝手気侭なト書きはあるかって怒られたんですけど」
「フォーマットがあるんなら教えて下さい」
などなど。
結論を先に云おう。
ト書きの書き方は自由だ。
見本なんかない。
制約もなければタブーもない、好きなように書いていい。
しかし、これには条件がつく。
シナリオというものをある程度わかった上での「自由」だ。
どうしてそんなことまで書くのか、と云いたくなるようなものは困る。
一番損するのは作者自身。
読み手が白けたり、ムカついたりするわけだから。
例えば、ファーストシーンで主人公の女性が歩いてくるとする。
それに対して、服装や髪型、アクセサリーまで指定する人がいる。
赤い服がよく似合うとか、胸元にしゃれたペンダントが揺れているとか。
その「赤」が、その「ペンダント」が、後に重要なモチーフになってくるのなら別だけど、ただ、作者が脳裏に描いている女性像を押しつけてるだけ。
ひどいホンになると、目許がどうの鼻筋がどうのと……
ホンとは呼べないね、そんなのは(笑)
「歩いている内藤智子(26)」これでいい。
その時の心理状態を伝えておく必要があれば、「どこか足取りが重い」とか、「思いつめた顔をしている」とか、そこまででしょう。
ついでに、ラストシーンにも触れてみる。
余韻を伝えたい気持は分るけど、蛇足は必要ない。
「ふと空を見上げる智子。今はもう、ふっきれた表情をしている」
それでいいのに、西陽がどうの、鳥が群れをなして飛んでいるがどうの、木立ちが風にどうの、一杯書いてある。
情景でさえそれだから、人物描写はもっとひどい。
片手で肩を押さえたとか、大きく伸びをした時に長い髪が顔にかかったとか。
いや、ほんと(笑)
読者がうざがるだけじゃなく、業界の関係者が読んだら、本気で怒るよ、
「金作って、一人で勝手に撮れ」って。
余計なことを指定するから、読み手のイメージは逆にどんどんしぼんでいく。
こういう人のホンは、一事が万事この調子。
肝心の芝居そっちのけで、ト書きばかりやたらに書きこむ、それで心情まで伝えた気になっている。
必要なことかどうかの判断には、充分神経を払ってほしい。
もう一つ、例を挙げよう。
ワンショットワンシーンみたいな、インサートカットが入るとする。
シークエンスの変り目などに、
「林立するビルの向うに朝陽が上る」
これは、前のシーン(前夜であっても、數日経過していても)における主人公の感情が反映しているはず。
いっぱく置くことによって、読者、観客に「あぁ、とうとうその日が来たんだな」とか、「一晩泣き明かしたんだろうな」とか思わせる為の効果を狙ってるわけで、前のシーンに重い芝居もなにもないのに、日替わりを告げるだけでシーンを立てるなんて大きな間違い。
困ったことに、一方で、
「絵に出来ないト書きは書くな」
「どうやって演出しろというんだ」
「ト書きは、人物の動きだけを補足すればいいんだ」
などど、目くじらを立てる講師がいる。
多分、前述したような自意識過剰なホンに対する牽制球だと思うけど、云ってることは間違い。
シナリオと演出台本は別。
もう一度云う。
心情にからんだト書き、大いに結構。
早い話が、人間は本音を喋るとは限らない。
いや、むしろ、その時の感情とうらはらなことを口にする場合が多い。
まして、シナリオでは、人物同士のぎくしゃくした感情を取り上げるわけだから、心と真逆な言葉が出てきたりする。
そうでないと面白くないし、際立ってもこない。
だから、読む人に(演出家を含めて)真意を伝えるためにト書きを駆使するのだ。
現に私は、こんなト書きを書き続けて来た。
「昂奮のあまり、智子は、自分でも何を喋っているのか分らなくなってきている」
「説得している筈なのに、内心では寒々している」
「いつキレるか、智子は今の自分がすごく心配だ」
「云いきったものの、後々の不安が胸をかすめている」
ついでに、私の親友が書いた映画のシナリオからも一本。
主人公の女が喚きちらすシーンの最後にポンとト書き。
「もしかしたら生理が近いのかもしれない」
全篇読まなきゃ分らないだろうけど、この一本に女のキャラが実にうまく象徴されている。
ビジュアルになれば、演出次第で、或いは役者の表情などで、充分観客に伝わる。
しかしホンの上では、人物達の真意や心情が伝わりにくいことが多い。
だから、ト書きで橋渡しをしなければならない。
堂々と書かなければならない。
ただし……
芝居をしっかり書きこんだ上でのこと。
云い換えれば、芝居を逃げてト書きに頼るようでは困る。
ト書きにも、科白づかいと同様、上手い下手がある。
一人よがりな余計なものを省いて、「簡潔に」書くべきだ。
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