科白の吟味

塾生・通信生には共通した欠点がある。

科白の吟味が少なすぎるという事がその筆頭だ。

通信生の作品を例に取ろう。

簡単に云うと、主人公AにBという親友がいる。

ごく最近AにC子という恋人が出来て、夢中になっている。

だが、C子には忌まわしい過去があって、ふとした事からBがそれを知ってしまう。

Aに報せるべきかどうか悩んだ末にBは話す決心をする……というくだりがある。

動作やト書きでは確かに迷ったり悩んだりしているのだが、結果口にする科白がこれだ。

「俺だって、親友のお前にこういう話をするのはつらい。だけど、お前も知っておいた方がいいと思うんだ」

そのまま抜き出してみたが、なにか身も蓋もない感じを私は受けた。

こういう場合、確かにズバッと要点を切り出す方が友情を滲み出せるかもしれないが、だとすれば、前後の動きが違う。

どう見ても短絡に書いてしまったとしか思えない。

どうしてそう焦って先を急ぐのか。

もしかしたら、書き出したら一気呵成にと、間違った教えをどこかで身につけたのかもしれない。

シナリオは勢いが大事だということは、プロのレベルになってから云って欲しい。

その人物間の親密度によっては、核心に触れず遠まわしに暗示する方法もあるだろうし、逆に、科白を起こさずに伝える間接話法もあるだろう。

要は、Aにハッと悟らせればいいわけだから。

そうすれば、次のシーンがまた変ってくる。

再度この作品に戻るが、次のシーン、AはカッとなってC子を咎めに行く、となっているが、分りすぎて面白くもなんともない。

疑心暗鬼というか、もっと複雑な感情をあぶり出すべきだ。

となると、BがAに告げるシーンは無い方がいい、と云える。

私は電話で懇々と話したが、分って貰えたとは思えない。

あれこれ考えた末の選択なら、たとえ拙なくても仕方がない。

人それぞれに、現在のレベルというものがあるのだから。

しかし、試行錯誤だけは充分に繰り返して欲しい。

シーンの並べ方にしても科白づかいにしても、そこでなされた工夫は必ず読み手に伝わる。

狙った感情はにじみ出る

中年以上なら大抵の人は、推敲(すいこう)の故事を知っている。

唐の詩人賈島(かとう)が、自分の作詩の中の「僧は推す(おす)月下の門」という件りを、「僧は敲く(たたく)月下の門」とどちらが表現として適切か、ロバの上で思案に暮れているうちに殿様の行列に突っこんでしまい、あわや無礼討ちされそうになったことから出来た言葉で、何度も練り直す意味で今日まで使われている。

作劇を志す者なら、尊敬する人物の一人にこの賈島を加えておいて欲しい。

長年にわたって何度も繰り返してきた事だが、誰もが感動するような「いい話」など、どこにもないのだ 。

コンクールで間違いなく最終審査に残る「心うつ話」など、絶対にない。

要は、ストーリーの内容や組み立て方ではなく、登場する主人公たちの歪んだとも云える心情をどうえぐり出すか、あぶり出すかにかかっている。

それ次第で、一つのネタは100点にも0点にもなる。

芦沢俊郎のシナリオ塾

テレビ・映画の脚本家として活躍し、松竹シナリオ研究所の主任講師を20年以上務めた芦沢俊郎によるシナリオ作法を紹介します