三位一体でコンクール突破

素材(テーマ)。

シナリオというものが、読者(ひいては観客)に対する挑戦状である以上、

その勝負は勝たなければならない。

勝つ方法はある。

敵は一人一人、趣味嗜好から大きく人生観に至るまで、千差万別のように見える。

だが、一点共通しているのは、社会通念という枠の中で生活していることだ。

そこに盲点がある。

彼等は、常識からはみ出た考え方、生き方をしたことがない。

必要ないのだ。

そんなものを取り入れたら、いたずらに混乱する。社会生活の歯車が狂う。

しかし、何度も話してきたように、「負の世界」に多かれ少なかれ興味を持っていること確かなのだ。

変な人間というと、語弊がある。

やはり、妖しい情念としか云いようがない。

そうした人間を描いて負の論点から堂々と挑めば、孫子の云う「百戦危うからず」になる。

ここで一つ、冷静に考えてみて欲しい。

お話は誰にでも作れる。

街ゆく人々を一ヶ所に監禁して、面白い話を作った人から解散すると云えば、

みんな我がちに発表するに違いない。

私は40年程前、姪に頼まれて女子校の文芸部を訪れたことがある。

その時に渡されたペラ20枚程の作品10本あまり、

それぞれ若い感覚が漲っていて、幾つかとても面白い着想と出合った。

でも、工夫したのはすべてシチュエーションであって、その設定の上で人物同士ぶつけているだけであって、ドラマとはとても呼べないコントであった。

彼女たちはそれでいい。

別に、プロになってそれで生活しようとは思ってないのだから。

私はしばしば、ペラ20枚のシナリオ、30枚のシナリオという言葉を耳にして、戸惑うことがある。

その昔私たちは、作品というものは最低ペラ120枚のものを指すのだと教えられた。

(テレビの帯ドラ、連ドラは別だ)

つまり、芝居所が7、8ヶ所あるとして、一つに10枚近く要するとすれば、単純計算で7、80枚になってしまうわけだ。

それを、すべて20枚の中に押しこんで起承転結をつけるとなると、

どうしたって『お話』の域を出なくなるのではないか。

ちょっとしたストーリーでいいのだし、確かに書きやすいだろう。

筆ならしにはなるかもしれない。

だが、そうしたものもシナリオだと錯覚したら、ひどいことになる。

20枚のものを仮りに50本書いてプロに近づけるのだとすれば、誰だってプロになれる。

日本中シナリオライターであふれてしまう。

次いで、構成(コンストラクション)。

アマチュアの作品は、総じて運びがダラーッと流れる。歯切れが悪い。

これは、各シーンを繋げようとする通弊があるからだ。

つまり、分らせようという配慮が働く。

分って貰おう、面白く読んで貰おうと思うあまり、

無意味な筋立てをしたり、状況を説明したりするのだ。

なくて充分、ない方がいいのに……という個所に、無駄なシーンや不必要なやり取りが多く入っている。

曾つて塾生の作品にこういうのがあった。

自己愛の強い女が主人公だったが、それを売りこみたい為に、至る所で自分を押し出す小芝居を繰り返す。

読んでいて、もういい、お前はそういう女なんだ、よく分ったからもう止めろよ、と云いたくなる。

普段の描き方を逆にしてみたらどうだ、と私は云った覚えがある。

つまり、普段はもの静かで協調性に富んでいる女が、

ここという所へ来て絶対に譲らなくなる、自己愛を主張する……

ガラッとイメージが変り、そういう女だったのかという驚きが新鮮になる、インパクトが強くなるのではないか、と。

構成の要点を一口に云えば、シークエンスとシークエンス(時にはシーンとシーンも)を

いかに繋がらないように工夫するか、が鍵になるのだと思う。

常識的に考えたって、分る筈だ。

読んでいて『おやッ、なにするんだ、こいつは』と、その都度、新たな興味を持たせるから先を読んで貰えるわけだろう。

先の予告をされたり、見え見えの方向に運ばれたりしたら、投げ出したくなるに決まっている。

ホンには躍動感がなければならない。

そして、科白。

初心者の作品の中で一番目立つ疵は、ここかもしれない。

多分それは、根本的な認識の誤りから来ている。

映像化された時、作品からそのまま残るのが科白だという過剰評価がさせるのだと思うが、

科白でストーリーを運ぼう、ドラマを支えようとする潜在意識が大きな誤りになっている。

シナリオというものは、文字で描かれた絵なのだ。動く絵画なのだ。

従って、科白は無くてもいい。

これは科白を軽視しているわけではなく、70点の絵を90点、100点近くまで引き上げるのも科白だし、

逆に、40点、30点に落としてしまうのも科白……いつも云っているように、

生かすも殺すも出来る諸刃の剣なのだ。

教室では幾つも例を挙げて話したのだが、ここでは割愛させて貰う。

表題では三位一体としゃれてみたが、この3つを改めて三方から見つめ直して欲しい。

仮りに、あるコンクールで2500本の応募があったとしても、そのうち2000本はお話なのだから、ドラマの在り方さえ会得してかかれば敵の数など恐れるに足らない。

作劇は、理系の学問と違って積み重ねが利かない。

その代り、一足飛びの進歩が望める。

極める迄にかりに300段あるとすれば、見えたと思った瞬間その人は20段30段駆け上ったことになる。

当人にその意識はないとしても、こちらから見れば歴然とその飛躍が見える。

芦沢俊郎のシナリオ塾

テレビ・映画の脚本家として活躍し、松竹シナリオ研究所の主任講師を20年以上務めた芦沢俊郎によるシナリオ作法を紹介します